J 「心行。教祖の教えに基づく生き方に徹する。円満具足。」
昭和五十七年三月六日 朝の御理解
x御理解 第二十節 「此方が天地金乃神よりおかげを受けておることを話にして聞か すのぞ。疑うて聞かぬ者は是非におよばず。かわいいものじゃ また時を待っておかげを受けるがよし。めいめいに子を持って 合点せよ。親の言うことを聞かぬ子が一番つまらぬ。言うこと を聞かぬ子は、親も仕方があるまいが。」
疑うて聞かぬ者はとか、言う事を聞かぬ子は親も仕方がない、とかいうふうな表現をなさっておられます。疑うとるわけではないけれども疑うておる、ね。
親の言う事を聞いておるような思いでも、親の言う事を聞いてはいない。というようなところが信心させて頂いておっても沢山出てまいりますですね。
教祖様は様々な、ま、いうなら、あられもない行をなさいました。けれども、だんだん御信心がお進みになるにしたがって、そういう、ま、表行的な修行をやめられてお嫌いに。最近の教祖様の御教えが、この頃大阪百年の記念のお祭りがあった時の記念のパンフレットにその事が書いてございます。
「此方は水をかぶったり断食をする修行が大嫌いじゃ」とおっしゃっておられますね。それを、なら、教祖様は、ああ、おっしゃるけれどもしてはならんという事はないからと言うてすると言う。
これはいかにも疑うてはいないようであって、疑うとる証拠でしょうが。皆、そういうふうな頂き方をしておるところに、頂き方の間違いというものが、ね、はっきり 親の言う事を聞いておる。自分は神様を疑っていないと思いながら、疑うておるのと同じゃないでしょうか、ね。
私、そういう御教えが、これ又去年でしたかね、それを合楽の場合にはそこんところ、私共もわかりませんでした。だから、やっぱり「表行より心行をせよ」とこう言われるから、表行はするなとうおっしゃってないから、やっぱ様々な修行もさしてもらいましたけども、そこに気付かせて頂いた時点で、合楽で表行を全廃致しました。 いわゆる、水をかぶったり断食をしたり、といったような修行を皆一生懸命やってました。ところが、ね、それがいかに本当であるかという事はその時点から合楽の御比礼がず-っとこう輝き出しておるんです。お参りなんかでも沢山。そこを時点に多くなっているです。まあ、修行をやめてから減るのじゃなくて、ね、そういう教祖様が天地金乃神より受けられたお話でありおかげの実験であり、ね。
だから、そういう私は大変な事を教団全体が、まあだそこに気が付いていない。
教団全体、いうならば、まだ表行をいわゆるしておる、教師信者があるとすのならば、これはもう、教祖のお言葉を疑うておる。
表行より心行をせよとおっしゃったら、表行をスパッとやめるという事、ね。
仏教より金光教をせよとこう言われたら、仏教やめな金光教がこう生き生きとしてこないでしょう、ね。
昨日私は、これはちょっと見るだけは見とったんでしょうけれども、私に対する何か書いてあるとか思うて振ったら手紙を、こういう手紙を出しますからよろしゅうという事だった。久留米の石田さんなんです。それで読んでもらいましたら、何とえら-い遠かとこですもんね。東京都品川区の方にある何か紫雲院、紫の雲のというような、素晴らしいそのお寺さんです。地蔵さんですよ、ね。そこに、水子地蔵の供養を頼んでおられて年々、まあ、お参りをしておられたわけでしょう。
ところが、合楽でお話を頂いて、わかればわかるほど、これがいかに、まあ、間違っとったかという事がわかった。
そこで私は、聞かせてもらったんですけど、もう実に丁寧に円満にその、はっきりとお断りの手紙を出しておられるのですから、今日差し上げなきゃいけないのですけど、ね。ようにね、本当な事がわかったらですね、それをいい加減にせずに、向こうから案内とか通知が来てるわけですよね。今度はなんじゃからお参りして下さいというふうに、書いてあるわけ、案内に。で、その案内と共に自分はこうやって、こういう事情で、ま、これで縁を切って下さいというような事が書いてある。
私はねえ、信心にはそういうところが、合楽の信心は大事なところじゃないでしょうかねえ。そこんにきを、も、しだごだにしない。もう、はっきりとする。
仏教より金光教をせよ、表行より心行をせよ。同じでしょうが。けども、表行をするな、心行をせよ。同じでしょうか、けども表行をするな、心行だけにしろとは言ってないもんですから気がつかなかった。実際は、その大阪のそれにも、もう此方は水をかぶったり断食をしたりする修行は大嫌いじゃとおっしゃっておられるけれどもというてまあ、大変な偉い先生がそれに注を書いておられるのです。いわゆる。だからやっぱり修行もさせてもらうというて、よけいな事が書いてあるんですよ。その大阪から出ておる御本には、ね。
だから本当にこう、自分は疑うてはおらんつもりだけれども、なら、言う通りにしなさいという事はやっぱ、疑うとるという事になりゃしませんでしょうか。疑って聞かぬ者は仕方がない、と。自分はもう、その説明をなさっておられる先生なんかは、大変教団でも有名な先生なんです。ですから金光教を疑うたりどうっていう事はないけれども、疑うたと同じ事になるのじゃないでしょうか。
教祖様ははっきりそうおっしゃっておられるのに、それでもやっぱさしてもらう。 止むに止まれん思いでさしてもらうというふうに、そんならよかごたるけれども、それでは、合楽の場合もおかげに・・・・・いうならば、本当のおかげにはならなかった。合楽では、なら、表行全廃という事になった時点からず-っと信者が倍増しておるのです。そういうところからね、私共が気がつかないけれどもねえ。
疑うてはいないけれども、疑うたと同じような、いうならば、行動やらあり方であるような場合がありはせんでしょうか、ね。いわゆる、言う事を聞かぬ子はもうわからん子ばっかりは仕方がないという事になるのじゃないでしょうか、ね。
昨日研修の時に、昨日は私が昨日朝頂きました『円満具足』という事を頂きました 意味がわかりませんから字引で引いてもらいました。くわしくそれが出ておりましたが。ほう、してみると私の人相が、こりゃ円満具足だなといって笑い話した事でした。rある易学をやられる私の遠い親戚にあたる方が椛目で人が助かりだした時に見えてから、わあ、ここん先生はもうあの天地を貫く相だと私の顔を見ていわれたんです ほう、天地を貫く相ちはどげな相じゃろかと私は思うたらここに(額)に縦じわがある。これが天に通ずる相だそうですね。すと下のここん(顎)ところが林長次郎ごたるふうになっとるでしょう私がつ。ちょっとひっこんですじがあって、これからこう鼻すじにこうかけてこう、これが天地を貫く相。
上でけの人もあるし、下だけの人もあるけれどもね、やっぱこう上下が揃うとかないかん。しかも真ン中が揃うとかないかん、と。
合楽でいわれる「天地人一如」の世界という、ね。人間は土より出でて土に還るんだ。だからその道中とても土の心でというその修行をさしてもらうという事がね。このここの先生が顔のここの丁度中央にこう火傷の跡があります。傷があるというのはこれはその、中年に大変苦労するといものだそうですね。顔の傷の上にある時には若い時に苦労する。下にある傷があるなら、晩年に苦労するという、まあ人相学からいうとそうなってるんだそうです、ね。ですから私の、なら、人相というのは天地に貫くだけではなくて、その土から出でて土に還るその道中を大変な修行をしておるという事になるわけです。真ン中に傷があるという事は。
だから私のこの人相が、ね、円満具足の足ろうた相という事になる。ていうてまあお話さした事でございますけど、ね。したら若先生が、最近よんでおる御本の中に、親鸞の御本をまあ読んでるそうです。それにね、沢山出てくる言葉の中に親鸞が表現される言葉の中に煩悩具足という言葉が出てくるそですね。煩悩具足。
私が頂いているのは円満具足という。だからこれはもう、本当に間違いない、それこそ足ろうたおかげになってくる、ね。衣食住は勿論の事、人間の幸せの条件が足ろうてくる。これは円満具足の信心をめざしている者に対するおかげなんです。
なるほどそういうてみりゃ親鸞上人様はもう九十近くだったですかね亡くなられたのは。晩年に至までやはり様々な難儀をして、子供がいう事を聞かん子供がおる。おてかけさんを自分が死んだらどうするだろうか、という心配の手紙を出しておられるような手紙が残っておるわけです、ね。しかも、なら自分はいつも、いうなら煩悩具足と、いうならば人間のいうなら煩悩をもう、あらゆる煩悩をもっておる自分だと、まあ、言い、考えようでは自分という者をギリギリ見極めた姿でしょうけれども、こういう考え方では助からんですね、ね。
例えば、いうならキリスト教でいう我罪の子であるというそういう自覚は、いかにもこう謙虚なようでありますけれども、謙虚な表現ですけれども私は罪の子、罪の子と言うとったら助かりようがないです。
教祖はね、神の氏子、神の氏子としてのいうならば、自覚が本当なものになってくる。もう、私は神様と同じようなものを頂いておる、持ってるんだ、とね、そして、合楽で言われる、合楽で言われるのはね、私は煩悩具足でなくてね、円満具足を願ってその、いうならば、合楽的に言うとその煩悩という言葉すらなくなるように思うですね。いや、むしろその事に対して御礼を言ってるんですもんね。
私共は、いや煩悩と思うた。但しその煩悩もです、教祖は我情我欲はいかんとおっしゃっとられる。我情我欲はいかんぞ、と。欲はいいぞ、と、情もいいぞ、と、けれどもそれがね、我情になったらいけないぞ、と。そういうところにやっぱ精進がだからいるわけですね。我情我欲ではそれこそ、そういう素晴らしい有り難い一切に御の字をいけられるようなおかげの世界に住む事が出来るけれども、いうならばその、我情我欲があってはいつも不安であり、心配であり腹立であり情けないという事になってくるわけです。それは我情我欲があるからですよ、ね。
だからその我情我欲を取るところに、いうなら、不安もない、心配もないといった心の状態が開けてきて、そういう心に有り難いという心がいよいよ生まれてきてその有り難いという心におかげが限りなく頂けて人間の幸せの条件が足ろうてくる、ね。 そこでね、私は思うのに合楽理念に説かれますように、とにかく過去の宗教のイメ-ジアップが本当にすきっと出来なければ駄目だって。
石田さんじゃないけれども、今までその水子の地蔵さんにお願いしてあった御霊の事に大変心を使ってしなさっておられたけども、合楽で御信心を頂いておるとそういう、いうなら馬鹿げたよな話じゃなくて、真の信心による事によって、いうなら助かる事も出来れば、ね。そういう事ではまあ、程度の低い考え方というものをよし、例えばそこにです、そういうまあ、水子のたたりといったようなものが、ま、あったとするならば、それはホタルの光のようなものなんだ、あったにしても、ね、いうならば、金光大神のお取次によって頂く大きな太陽のような光をあてるのだから、もう、そこに小さい光はあってないものと同じ事になるんだというのが合楽理念で説く。
これは易学とか様々な、ね。でもやっぱ学問にでも、なっておる位ですからね、墓の墓相があったり、家相があったり、ね、いろいろ言うでしょう。だからないわけじゃないでしょう。だから人相の悪い人はおかげ頂けんではなくて、人相の例えば学からいうたら、も、この人は成功出来んような人相の人であっても、金光大神の信心によってするとそれは小さいホタルの光に大きな光をあてたようにそういうものは消えてなくなって、有り難い道、和楽の路がいうなら開けてくるわけ。だからその、和楽の路をいよいよ限りなく頂いていこうとする事の為にいるのが、我情をとり我欲を取るという事、煩悩を取ってしまえという事じゃないのです、ね。なるほど親鸞上人様が一生難儀なさったという事がわかるでしょう、ね 自分という者を見極める。教団の中でもそうです。もう詫びに詫びに徹していくといたったような、生き方の先生のところでは人が助かってないです。私共はじめはそれは素晴らしい事のように思うとったんですけどね。自分という者を見極めていくと、あ、自分のような汚い者はないというようなところになってくるんです。そん汚いと思うておったその事が本当にいうたら御礼を申し上げねばならない事であり、それが、なら、我がついていけないから我のとこだけを取っていうという生き方、いうならば、人間が人間らしゅう生きていく手立てというのが合楽で言われるのがその事なんです、ね。煩悩具足でも罪の子でもないのです。
そういう事がこう明確になって来たわけですね。合楽の信心によって、だからそれが本当にわかったところから、今の石田さんじゃないですけれども、早速その事がわかった。そこから丁度向こうから通知が来た。だからこの際断りのこれからの御供養はもう必要ではない事を書きしたためて手紙を出しておられるのがこの手紙なんです だからその辺のところが信心にはいるんです。だからそれをしないでおるとです、例えばそのさっきの話じゃないけども、なるほど神を疑うて聞かぬ者は仕方がないとおっしゃとられるが、疑うとるとは思うとらんけども疑うたと同じ事を続けておるような事がありはせんかという事です。
いう事を聞かん子は親でも仕方があるまいがとおっしゃるように、言うこと聞かんつもりじゃない。聞きよるつもりだけれども、ね、神様の眼から御覧になられるという事を聞いておらんというような事が沢山ありゃせんかとこう思うです。もう、本当にそうですばい。いかにもう、御神縁を頂いて神様まかせになっとりますと自分な思うとるけどもね。実際は本当にいうとそうではない。只、自分の都合のいうならば時だけお伺いをしたりお願いをしたりしてるのであって、実際の根本のところはいっちょっん神様まかせになっとらんです、ね。
いう事を聞かん子はもう、親でも仕方あるまいがと神様でもいう事を聞かん子は仕方がないという事になるのです。仕方がないからというてつき離してはない。又、時節をまっておかげを受けたがよかろうとおっしゃるのですから私共にそういうところがあるならばです、もう、今こそ時節と思うてそこんところを一掃していく。
一新していく信心が望まれるという事になります。私共のおかげの頂けれる全ての有り難いものを持っておるのが私共です。
だから、それを御教えによって修行さしてもろうて完璧な物にしていこうとするそれが私は、ね、円満具足だと、円満具足をめざしていくのだ。だから全てのおかげが具足してくる、足ろうてくるという事になるのです。
いつまでたっても、ね、我、屑の子であったり、ね。又は、我、罪の子であったりね。又はそれこそ煩悩のかたまりのような自分だという表現でしょうね、煩悩具足といのは、いうような自分というのをいじめる事がいかにも信心のように思われた時代はもう過ぎたね。合楽理念に基づく過去の宗教の、いうならイメ-ジがアップされてそれこそ合楽理念に基づく生き生きとした助かりを願いにね。
これが今迄、なら、そういう事を知らなかった人にも、合楽に御縁を頂いとる方達がそこんところの実験実証、いうならば表行全廃、もう、その時点から合楽の、いうならば、比礼というものがず-っと倍増的に年々おかげを頂いて来ておるという事実からいうてもです、ね。いうなら、自分の思い方の上にもあり方の上にも本気で改まらなければという事がわかります、ね。どうぞ一つ、あ,自分な手相が悪い、人相がよくない、儲け出さんごた顔になっとると、いうならば、いうたらもう、そこに落ち込んでしまうです。
例え、どうであってもそれは本当かも知れません、ね。けれどもその本当は、それはホタルの光のようなものなんです。ですから金光大神の光をこれにあてたら、そういう事はなくなって、いうならば神様の、いうなら神愛を全身に受けとめていけれるいわゆる、心一つで全てを創るという世界が開けてくるわけですね。
どうぞ。